たぐしゅう部ろぐ

ヒキコモリストの日常

神様がいっぱいいる国

今週のお題「地元自慢」にのっとって書きたいと思います。ただ内容が本当の意味でこのお題に沿ったものかどうかはちょっと自信がない。ただ最近自分が思っていることを書きたいと思います。

 

実は一昨日、ちょっと散歩(ジョギング)に出かけたのです。自宅から距離にして10㎞程のところに仁徳天皇陵大仙陵古墳または大山古墳)があるのですが、久しぶりに走って行ってきました。

 

最近、日本の古代史に興味があって勉強しているのですが、実はその中で思っていることがあって、これは古墳時代(~奈良時代)っていうのは凄い歴史の転換期だったのでは?ということなんです。まあ学校でもそう習いますよね。

 

今の日本(または世界)がそうであるように、この遥か昔の激動期に今の日本の基礎が作られたのは間違いがありません。ただ実際にこの頃どんなことが起きていたのかは推測するしかありません。

 

ただ神道的な価値観とそれに基づく国家運営、仏教の伝来と定着など今に繋がる様々な事柄がこの時代の日本で起こっていたのは歴史的事実です。そしてこれらは日本人のアイデンティティーの基礎になっている。

 

だが歴史的な探索は今回の主題ではありません。もっと感覚的な話をしたいと思います。どういうことかと言うと、街を散策していてもハイキングで山に登っても、はたまた家で掃除洗濯をしていても、どこにでも神様がいるっていうこと。もっと言うと日本人的に考えると自分も含め一人一人が神様と同化も出来るってことだ。

 

別にスピリチュアルなことに傾倒している人じゃなくても日本人ならこの感覚って誰でも多少なりともあると思います。「お天道様の下ではちゃんと生きよう!」とか。例えキリスト教信者だったとしても日本人ならこの感覚をオカシイとは思わない筈(同意できない人もいると思うが…)。

 

八百万の神って言いますが、神様ってどこにでもいらっしゃる。このことを私は最近まで意識出来なくなっていました。ただ意識出来ないなりに時には思い出そうと努力していたのだと思います。つまり今日もそんな気持ちで散歩(ジョギング)に出かけたのです。実際にはもっと漠然とした感覚ですが。

 

別に何か願い事をするとか、願掛けとかそういうことじゃない。ただ神様がいるっていうことを感じたくなることってありませんか?別に本当は出かけなくても出来ることではあるけれど、時には神社に行ったりしたい時ってありますよね。自分にとってはジョギングそのものが瞑想とかそんな行為と同じように感じることもあります。

 

勿論、何か願い事をするのも良いとは思います。それで意識が向くのだから効果はある筈です。でもそうじゃなくても禊(みそぎ)と言ったら大袈裟かもしれないが自分をリセットしたいとかそんな感じですかね。

 

この日の散歩(ジョギング)の理由はこんなことだったのか、本当のところは自分でも分かりません。興味と言う意味では「古代の日本で本当はどんな出来事があって、その結果として何がどのように変遷したのか?」をもっとちゃんと知りたいと思うのです。

 

その為に身近でこのようなことを意識出来る場所に行きたいっていう欲求が昂っていたのも事実です。つまり修学旅行気分というか…年甲斐が無いと思われるかな?そういう意味では行きたい所は山ほどある。日本各地を回りたい。

 

もっと言うと興味はもっと広がっていて、古墳時代奈良時代よりも前の縄文時代弥生時代はどうだったのか?そこから三輪山王朝とか倭の国、大和の国にどう繋がるのか?東北の勢力はどう関係していたのか?出雲の国は?とキリがない。最近の研究では太古の時代にも日本の地には文明があったと言われています。もっととんでもない話としては宇宙人との関わりがこの頃にあったなんてものもある。

 

そうだとしたら日本人は今何を思い出し、何を❝よすが❞に生きればいいのか?考え方としては古事記など記紀の内容が参考になるとは思いますが、自分の中ではこれらも当時の❝からごころ❞の影響が大きいのでは?と感じる部分もあります。要は渡来人の影響を徐々に受けながら歩んだ歴史が日本の古代史なのでは?と感じるのです。

 

曽我氏とか秦氏なんてどう考えても渡来人だし、聖徳太子なんて実在していたかどうかも怪しい。ヤマトタケルとか創作なのは分かるけど、そうならそうで何を伝えたかったのか?

 

こんな話をすると「頭オカシイ人」と思われるかも知れないけど本気です。だからこの時代の真実を知ることは、ひょっとすると今の世界を救うキッカケになりうるのでは?と思ったりするのです。

 

記紀の内容は本当はどのように解釈するのが正しいのか?歴史的に考えたらもっと遠い昔から大事だったことを物語の中に反映しているに過ぎないのかもしれないと思うのです。

 

だが精神としては古事記のというか、❝惟神の道❞という基本を思い出すことがこれから先の時代にも通用する❝道しるべ❞になりうるという馬淵睦夫先生の話は納得できます。これは大筋で同意できます。

 

ただそうだとしてもこの時代に変質している部分もあるかも知れないのです。だから物語が創作なのであれば、そこに表現されている事柄は本当は何を意味しているのか?歴史的事実はどのように表現されているのか?を考えてしまうのです。なんか難しい話をしてしまいました。

 

だがもう一つ思うのは、実際の生活の中で実践出来ているかどうか?という話。この点については本当に自信が無い。もっとちゃんとしなきゃ!っていうのはこの歳になっても常に感じること。多分、他人と見比べても自分は何も出来てない。仕事にしてもプライベートにしても自分より年下の方に怒られることは多いし、実際出来て無いし反省しきりです。

 

だが希望を持って生きているって点では胸を張りたい。これは自信を持てる。と粋がってみてもしょうがない。だがこういった無駄に思える投稿を繰り返すことも修行なのかな?と思ったりします。自分の考えを吐露することって大事ですよね。

 

話を戻すと散歩でしたね。この日は天気も良かったのでもっと早めに出たかったが出発が15時過ぎになったせいで仁徳天皇陵の付近に着いたのは16時頃だった。だが堀の周囲は紅葉もちらほら見られたし天気も良かった。久しぶりの遠出(?)なので気分も良かった。

 

1㎞を5分ぐらいのペースで走っていたのでトレーニングっていう感覚じゃない。やっぱり散歩だ。写真撮る時は足を止めてしばらく散策した。本当は周囲を3周ぐらいしたい気分だったが「今日は程々にしよう」と思った。

 

お題は「地元自慢」だったが、ちょっとやっぱり違う話になってしまった。自宅から10㎞は近いですが、感覚的には自分はもともと関西出身じゃないので地元自慢って言うほどじゃない…白状するとそう思います。

 

だがお題はお題、自分が言いたいのはこの国には神様が至る所にいらっしゃるってこと。神社が無い街なんて無いし、都会にも自然はいろんなところに有るし、やっぱり日本っていいなあって思います。

 

そして人の繋がりもそうです。日本人だからこそ共有できるものってありますよね。これから先もそういうものを大事にしながら生きて行きたいと思ってしまいます。これは別に選民思想とか優生学とかじゃありません。ただここに生きていることが幸せだなあと感じます。

 

秋ですね!数年前に堺シティマラソンで走ったコースだったことを思い出しました!

やっぱり厳かな雰囲気はありますね!昔の人はどんな思いでここに立っていたのかな?

鷺の仲間かな?こんなところで見るとなんか幸せを運んでくれそうな気がするなぁ。