たぐしゅう部ろぐ

ヒキコモリストの日常

文章を読まない人々に伝える難しさ

文章っていうのは読まれなかったら意味が無い。難しい時代だ。

最近の若者は本を読まなくなったと言われて久しい。

 

自分は日々ブログを更新しながら思う。

 

文章で人に伝えるって難しい。

 

内容もあるがタイミングもある。

 

タイミングよく情報を提示しても相手が必要と思わなければそれで仕舞いだ。

 

自分は人に伝えるという点で本当に非力だと感じる。

 

自分自身の伝える技術が低いというのが一つ。

 

このブログというシステム自体をいまだに使えてないというのもある。

 

それを差し引いても感じるのは「文章を提供しても相手が読まなかったらしょうがない」という問題。

 

大事な情報がそこにあっても、ともすれば放置され風化するだけだ。

 

形としては残るのだろうが、時間とともに見向きもされなくなる。

 

今流通する情報というのは軽薄短小なものばかり。

 

それすらもキーワードで取捨選択され、重要なものは俎上に乗らないケースが大半だ。

 

このような世の中では人々はますます考えるという作業をしなくなる。

 

咀嚼しないと分からないような難解なものは好まれないので見捨てられて行く。

 

古典のような本当に読めば味わい深いもの、重厚な知が含まれている情報はますます流通しなくなる。

 

ではすべてを映像作品にするのが良いのか?

 

映像には映像の特性というものがある。

 

そこで全てが伝えられるかと言ったら難しい。

 

そして映像ですら感性に合致しないものは見向きもされない。

 

これでは本当に重要な物事は世代を越えて伝わって行かない。

 

この点を何とかしないと日本は衰退していくだけ。

 

そう感じる。

 

昨日映画『すずめの戸締まり』を見たので、そのせいでまた考えている。

 

現状を変えることの難しさ。

 

こんなところでぼやいていてもしょうがない。

 

だが解決方法を知っている方がいたら教えて欲しい。

 

自分は多くの人が幸せになって欲しいと思う。


だが、その為の情報がどうやったら流通するのか知りたい。

 

どうやったら人に伝わるのか?が本当に知りたい。

 

そもそも重要なモノは人によって違う。

 

だから自分が重要だと思っているモノが違う可能性もある。

 

また自分の感性や物事の理解の仕方が違うのかも知れない。

 

だがそんな問題がもしあるとしても、提供しているモノが無価値ではないと思っている。

 

だが相手が選ばなければそれまでのこと。

 

だがそう割り切れない気持ちがまだある。

 

文章がそこにあっても、読まれなければ伝わらない。

 

そして読んでも相手が理解できなければやはり伝わらない。

 

その情報が大事なモノだという認識が無ければ、それは生かされない。

 

文章というツールは衰退していくばかりなのでしょうか?

 

ごく稀な価値が認められるものしか残って行かないのでしょうか?

 

あるいはこのような状況に迎合して表現を変えたモノしか残っていかないのか?

 

ネット上には本当の意味での情報は流通しないのか?

 

そこにあるのは軽薄な気分と、同調しようとする浅はかな欲望だけ。

 

難しい。本当に難しい。

 

そして大問題だと思う。

 

だが一つだけ分かったことがある。

 

それは心に残るものは思い出すという事実。

 

つまり最初は理解していなくても心に残れば反芻する。

 

そうしたらやがて理解する日があるかも?ということ。

 

時間はかかるのかも知れない。

 

だがそうやって必要な事は時間を越えて伝わっていくのかも知れない。

 

そのように希望を持つしかない。

 

だがそうだとするとブログじゃないよな?とも思う。

 

また自分はもっと根本的に自分自身を価値ある状態に高めないとならない。

 

これが先決かな?