たぐしゅう部ろぐ

ヒキコモリストの日常

オアスぺと竹内文書の相似 日本人の可能性

自分が言っていたことの意味を受け止められないかも知れない。これは重い!重すぎる!

ちょっと前にオアスぺという書を紹介したが、この中で語られている内容が実に面白かった。アメリカの歯科医ジョン・ニューブローという人が1881年に著した本なのですが、実におもしろいのは日本の古代史を記した偽書竹内文書」などの内容的にかぶる部分がかなりあるのだ。

 

勿論、この竹内文書というのが今の常識から考えるととてつもない内容なので、比べることにどこまで意味があるのか?と思う人もいるでしょう。

 

しかしその奇想天外さも相似しているし、ともに言えるのは人類の起源はダーウィンの進化論的なものじゃないと断じている点。

 

竹内文書では人間というのは宇宙からある日降り立った神(天皇)が創りしもので、今で言う遺伝子技術で五色人が創られ世界に散らばったと考えている。

 

オアスぺにおいてはやはり創造主ジェホヴィが78000年前に作り出し、その後天使との交配とか段階を踏んで進化したもの。

 

ここには聖書など既存の宗教の考え方にも共通する部分もあるが、捉え方はいろいろ出来る。だが理性的に考えると矛盾だらけで受け入れるのは難しい。

 

時系列的にオカシイじゃないか?とか、そんな技術は結局どこからもたらされてのか?とか謎は多いがそこは解明のしようが無い。

 

だがその後の歴史を見ると竹内文書では世界に散らばった五色人の民王が天皇の統治から逸脱し勝手にそれぞれの地を治め始めたのが混乱の始まりと言う。

 

オアスぺにおいては原初の人類から派生した血を分けた種たちの中で道徳と言う概念を理解しないモノたちが争うようになったのが混乱の原因と考える。

 

そして竹内文書では三次元世界での文明の崩壊は神界の不調和が原因と考える。つまり四次元世界(神霊界)の写しが三次元世界(この世)なので、四次元世界の神々が未熟だった為にそれに導かれた人間も道を誤ったと。

 

そしてこの原因は元を辿れば五次元世界の統一神が四次元世界を神々の学びの場としたことにあると言う。そして今はまた四次元世界の神々も秩序を取り戻し、学びの期間に得た経験も手伝って立て直しに取り組んでいる最中だとする。

 

だから現世もこれに倣って世界再統一に向かう過程にあると考える。そして最終的には日本の天皇を中心として平和な世界になると予言している。この点は納得できる人とそうでない人で別れるだろう。

 

そして話を戻すと、オアスぺの内容を見ても鍵は日本人だと言っているのだ。つまり第二の人類イヒンの末裔である日本人が目覚めることが必要だというようなことを言っているのだ。そして現実世界はコーポリアル界と表現されているのだが、これはアトモスフェリア界(霊界)の影響を受けて進化するのだ。この点も似通っている。

 

具体的には封印された創造主の言葉は全人類を救う為の種子として準備されたが、これを解き放つのは日本人の役割だというのだ。そして時が来たらあなた方も光り輝くだろうと言うのだ。

 

最終的にどんな世界になるかは分からないが、そこに至る過程で日本人が鍵になるという点では一緒である。そして竹内文書は世界というのはもともと日本を中心に統べられていたモノと考えている。その中心が天皇だと言うのだ。だがここで思うのは「統べる」という言葉の意味が一般的には誤解されているという問題があるように思う。この点は別に機会に話をしますが…。

 

しかし、この責任の大きさは何だろうか?世界が平和と秩序を取り戻す為には日本人が目覚めなきゃならないということになる。現状は厳しいと思ってしまうのは私だけでしょうか?自分には荷が重すぎると思ってしまうが、やらなきゃならないのだろうか?

 

それは自分の命を捨てても良いというところまで自分を高めなさい!と言われているのと同じだろう。全人類の為に自分を投げ出す覚悟をしなさいと言う事ですよね。

 

これは余程の勇気がないと無理だろう。かなりの丹力が必要だ。いざとなったら出来るのだろうか?そんな筈もない。今の自分には無理…かも知れない…。

 

だがこの前見た映画「すずめの戸締まり」では主人公の女の子岩戸鈴芽がこのような勇気を発揮して活躍している。もし日本人に可能性があるとすると、誰にでもこの勇気があるのだろうか?一人ひとりが分を尽くせば足りるのだろうか?

 

ここで思い出したのが「ガイアの法則」だ。800年周期で文明の中心が移動するというこの論によればもう日本の世紀は来ている筈なのだ。実感がないのはひょっとしたら自分たちの目覚めが無い為に現実世界の変化も起きていないのだろうか?と考えてしまう。

 

自分は今まで何気なく投稿してきたが自分が言っていることの意味に改めてビビっている。自分は痛いのも怖いのも辛いのも全部嫌な人間です。人生でこのような経験を避けて生きて来た。今さら勇気を持てと言われても、実際に何が出来るかな?って思う。

 

ブログを更新しながら本当に腹を決める重要性をひしひしと感じている。多分これを出来るようになるには愛を感じる必要がある。多分、自分が大切だと思う人の為なら出来るかな?って思うのだ。だがこれでは限定的だよね。神様は私たちにどこまで求めているのだろうか?