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ヒキコモリストの日常

日本人光の戦士論<36>復古に日本人の可能性を見る

日本人の文化とか復古と言われるものには太古の時代から受け継いだ精神性が見て取れる。

縄文土器の芸術性に驚く!5000年前ぐらいですかね。どんな想いで造ったのかな!

これからの時代において復古という考え方は重要になってくると思われるのですが、たぶんいろんなレベルの復古があるのです。「これからはAIの時代だよ。何言ってんだよ!」というお叱りの声も聞こえるかも知れないが本気です。

 

日本には1万年以上の歴史があるし、その時代ごとに特質というのもいろいろ考えられるのですが、さかのぼると言った時にその対象になる年代の幅は気が遠くなりそうなものです。

 

近いところで考えると昭和とか第二次世界大戦の戦前・戦後という事になるし、それよりちょっと前と言うと大正・明治、そして明治維新の頃と言う事になります。

 

これらより前となると江戸時代や安土桃山時代、そして戦国時代ということになり、それよりちょっと前というと室町時代南北朝時代、そして鎌倉時代あたりです。そして平安時代奈良時代飛鳥時代、これより前となると古墳時代、そして弥生時代縄文時代と連綿と続くことになります。

 

列記した古い時代それぞれの中でも復古という動きは節目節目で起こっており、日本の歴史というのは常に更新して行く中で、確実にもっと古い超古代の叡智とか文化を受け繋いで来ています。

 

これは日本には古い時代(超古代)から語り継ぐだけの重要なものがあったと言う事でもあります。それが何かというのは考えれば分かる事だと思います。

 

実を言うとこの中で隠されてしまった叡智もあると感じるのですが、それ以外の重要な部分というのはかなり意識的に確実に受け継がれて来ています。

 

だがこの受け継いで行くという意識がかなり希薄になったのが昭和の第二次大戦後からなのではと感じます。

 

これは世界的にも言える事かも知れません。西欧的な科学技術がかなりドラスティックに社会変革を起こしたので、それまでの古い時代の叡智とか文化・習俗などの意味がある意味で失われて行ったのでしょう。また西欧社会というのが思想的にも飛躍したのが最近なので、これが今のスタンダードになっていった面もあります。

 

そして日本においては連合国による洗脳工作がかなりきつくて、戦前の人々にとっては大事だったものがかなり意識的に排除されて行ったのだと思います。

 

これらから考えると今の時代っていうのは過去のどの時代よりも古い時代との連続性とか共通性が無い時代だと言えるでしょう。

 

だが一つ言えるのは、そんな今現在だからこそ古い古い時代(超古代)の叡智とか文化的なものたちを意識しなくてはならない時代なのでは?と思うのです。

 

今更そんな古い古い時代の事を思い出す必要性は無いだろうと言う意見はあるかも知れません。しかし、私はこの日本における古い古い時代(超古代)というのは凄く貴重なものがたくさん埋もれているように感じるのです。

 

これがどういう事なのか?と不審に感じる人は多いでしょう。まず日本人がここまで変質して来た理由を紐解いて行くと、明治維新から始まる西欧的なものの浸透・侵略の影響、そして第二次世界大戦後の洗脳、これらの影響はかなり多大です。そして今も続くグローバリズムや科学技術信仰の流れというのも大きな問題です。

 

これらによって日本人あるいは日本社会はかなり様変わりしてしまったし、変質してしまった。これは時代が進んだんだからしょうがないとか、進化したんだから良い事じゃないか?と反駁があるかも知れないが、そんな単純な話では無いと思うのです。

 

今の社会の状況を見て思うのは、何がここまで人間を虚無化したのかということです。そして生きる為に必須である健康が何故ここまで損なわれたのかとも感じます。今の日本人で生きた屍みたいな人が多いと感じる人は多いでしょう。これが海外ではドラッグなども加わって、アメリカなどでは本当にゾンビの住処みたいになっている街も存在しています。

 

日本社会においても特に顕著なのは精神的退廃と健康状態の悪化だろうと感じます。そして社会と言う意味で考えると家族という社会単位が壊されたことも大きいでしょう。「時代がそういう時代なんだ」と言うのは簡単です。だがこれによって失ったものは本当に大きいでしょう。

 

街をにはなんでこんな生気の無い表情でゾンビさながらに彷徨っている人が多いのか?何故階段を昇るだけで息を切らしている大人が多いのか?

 

仕事の疲れ?運動不足?何等かの疾患がある?理由は分からないがしかし、本当にこの人たちは後どれだけ生きられるのだろうか?と心配してしまう様な人が多いのです。

 

コロナ禍の中で生活習慣病などの基礎疾患がある人は免疫力が落ち感染リスクが上がると言われましたが、これにあたる人は国民の2・3割はいるだろうな?と感じます。

 

データを見ても病気やけが等で自覚症状のある者(有訴者)は国民の3割強となっています。これに加えて精神疾患うつ状態の人の増加もあります。

 

そして誰もがスマホを片手に情報検索しないと自分の行きたいお店にも行けない。考える能力が失われてしまっているのでマスクを取ることも出来ない。そしてマスクをすることで尚更に脳が機能しなくなっている。

 

日本人は本当に幸せになって来たのでしょうか?科学技術が全ての問題を解決してくれるのなら、今の日本人の状態は何なのか?半病人みたいな人々が社会に溢れている理由は?

 

今必要なのは何だろうか?と考えるとやはり科学技術も重要ですが、それ以上に必要なのは人間性の回復とか精神性の維持、そして健康の大事さなのでは?と思うのです。そして人間にとって基本的な物事をちゃんと考える能力なのでは?と感じます。

 

明らかに今現在の日本社会というのは病んでいます。これは日本だけの問題ではないでしょう。都会だけの問題でもないでしょう。それとも他の国の社会にこの種の問題は無いのでしょうか?たぶん程度の問題なのでは無いでしょうか。

 

このような現状を見ていると思うのは過去の日本の社会にも健康の問題は多々あっただろうが、これほど人間が生気を無くして人間性を失っている時代は無いのでは?と感じます。

 

これは科学技術が発達して生活は便利になり、様々な問題が解決されて来ているが、その反面人間自体が退化しているような印象も持ってしまいます。

 

そして今話題のChatGPTの危険性です。今でも自分自身で考える能力が失われている日本人が尚考える事を出来なくなる可能性は高いです。これは文化の破壊であり人間性の破壊です。便利さに惹かれてこんな技術に全面的に頼るようになったら、次はメタバースに取り込まれ日本人は現実世界に居なくなります。

 

この悲しい未来社会が現時点で見えている人がどれだけいるでしょうか?政治家のほとんどはそこまで見通す事すら出来て無いでしょう。彼らも多くの日本人と同じで考える能力が失われている筈なので、外国勢力の嘘に乗せられてホイホイ着いて行くのです。

 

コロナワクチンの危険性を当初から感じていた政治家や役人がどれ程いたでしょうか?今外国から輸入されている遺伝子組み換え食品や添加物、そして農薬などの危険性をちゃんと認識していた人はどれ程いたでしょうか?

 

全然わかっていないのです、彼らは。そして国民の大多数も政府が導入したのなら大丈夫だろう、世界的な大手製薬会社のワクチンなら間違いは無いだろう!と信じてしまった。国民の8割があんな不良品のワクチンを一度ならず接種してしまった。

 

結果はどうでしたか?因果関係不明と言われるが何万人という命が失われています。これはコロナウイルスに感染して亡くなる人数の何倍になるでしょうか?そして生殖機能へと影響や癌の増加、免疫疾患の増加、これらは何でしょうか?

 

これ以前に日本人の健康はすでにだいぶ蝕まれていました。若い世代はそんなに影響を感じていないかも知れないが、壮年以上の世代は確実に健康問題を数多く抱えている筈ですし、これは寿命が延びたと言っても健康寿命という意味で捉えたらどんな状態でしょうか?

 

そしてこの状況は社会保障費の増加という負の連鎖を生んでいます。そしてこんな状態で低賃金で働き続ける日本人は一種の奴隷に近い存在なのでは?と感じます。そして政治はこの根本問題に手を付ける気配もありません。最近は花粉症対策とか言い出しましたが、先にやること無いでしょうか?

 

今の少子高齢化対策の無意味さに気が付いている国民はどれだけいますか?どれだけ考えていないかが分かります。そして子供に対するマスクとワクチンの推奨です。この国の❝本当の宝❞を専門家と言われる人々とか政治家自ら傷つけています。そして外国人労働者の厚遇です。国の事を真剣に考えたらこんな政策は出てくる訳が無いのですがこれが現実です。

 

そして地方都市でも外国勢力の浸透は確実に進んでいます。北海道はもう日本では無いような状態です。そして最近は大阪でカジノを造る計画が進んでいますが、何故沈んでいるゴミの上にこんなものを建てるのでしょうか?そこにも利権がからんでいます。そして外国勢力の思惑がからんでいます。

 

これが命をかけて先人たちが戦って守ってくれた日本の現状だと考えたら、ちょっと情けなくなります。これは復古以前の問題かも知れません。この売国的な状況はまだ続くのでしょう。そして外国勢力の影響は日本全土を覆って行くでしょう。

 

今立ち上がらなかったら日本は後10年は持たないでしょう。そしてそれまでに台湾有事が起こるかも知れません。このまま行くと憲法改正によって非常事態条項が作られてしまいます。そして増税社会保険料の引き上げで生活はもっと困窮するでしょう。

 

今の状況をちゃんと捉えている日本人はどれだけいるでしょうか?不安を感じている人はたくさんいる筈ですが、その不安の半分ぐらいはメディアの洗脳の結果です。そして今の状況を作ったのは過去の自分たちの選択です。

 

亡国の道を進んでいる今の日本人は、もう一度原点に帰る事が求められているかも知れません。それは昭和?明治?江戸時代?鎌倉時代?それとも…。

 

考え方はいろいろあるでしょう。だが確実に言えるのは今より不幸せで不確かな時代だったと思われている過去の時代の方が優れている点は多々あると言う事です。

 

ここでちょっと縄文時代という太古の昔までもう一度遡ってみたいです。彼らには今みたいな科学技術は無かった筈ですし、今みたいな学問とか思想も無かったでしょう。それどころか文字もほとんど無かったと言われます。

 

生活の知恵と言っても山に入って山菜を採って来るとか海に行って海の幸を獲って来るとか、それらを煮て食べるとか、そんな事だった筈ですが、今よりもっと豊かだったかも知れません。

 

時代が違い過ぎて比べるのも変な話ですが、冷凍食品とかカップ麺とか健康に悪いものを忙しい生活の中で合間合間に口にするだけの現代的生活とどっちが良いでしょうか?

 

ITとか情報化とか科学技術で便利になった今の社会とは比べようが無い程に原始的な時代だったのは確実ですが、そこには今現在も求められている持続可能性がありました。勿論、それでも三千年前に彼らの文明は終焉を迎える事になるのですが、それまで縄文文明は一万年以上続いたのです。そして彼らの叡智は以後の日本人にも受け継がれて行ったのです。

 

当時は寿命ももっと短かった筈ですし、健康問題だって多かった筈です。今みたいな医学なんてものは無かった時代です。でも今みたいに死んだような状態で生き長らえる事は無かった筈です。

 

生活は今より厳しいものだった筈ですし、そこで生きて行く苦労は並み大抵のものでは無かったかも知れませんが、生きている実感はあったでしょう。

 

そして彼らの社会には今みたいな煩わしい問題は少なかった筈です。しかも縄文人たちは争う事を起こさないで生きる術も心得ていた。社会の規模は今と比べたら小規模だったが、そこには和の心があった筈です。

 

彼らから見たら今現在の日本人の生活は無駄に生命エネルギーを浪費しているかも知れません。社会システムが複雑化し過ぎているし、生産的な労働とか経済活動という余計なものに人生の大半を奪われています。そしてその過程で健康を害して生き長らえたとしても半病人みたいな状態で余生を過ごす事になる。あるいはその状態でも労働を続けなければ生きられない。

 

本当に人類は進歩しているのでしょうか?進歩している筈なのに社会には問題が山積しています。そしてこれらの問題を解決する為に政治的に争ったり、他国とか他人から資源とか労働力などをさらに搾取する行為が常態化しています。

 

今の社会においては全体のシステムが西欧的な、というか唯物論的な(二元論的な)ものなので、何をやるにしても何を表現するのでもこの土台でやらなくてはならない。これが大前提です。

 

だがこの前提自体がもう今の世の中のシステムが限界なんだという証拠でもあると感じます。科学技術にしても、思想的なものにしても、政治的な問題も、経済問題も、結局はこの束縛から逃れられないのです。

 

だが縄文時代の叡智というのはこの限界の向こう側にあるんだと思うのです。だから今の常識で思考したら理解できない。自分もこう書いていてちょっと矛盾しているのを感じています。じゃあ、どう見たら良いのかと思いますよね。

 

私たちは縄文文明というと土器とか土偶とか形に注目します。あるいは今に通じるファッションみたいな文化があったとか、全体的に和を重んじた平和な時代だったのだろうみたいなイメージで話をします。このイメージって今となっては証明できません。そうなんだろうな?って現代の私たちが作り上げたイメージです。勿論、遺跡とか遺骨とか証拠を見てイメージしている訳なので、ちょっとは現実に近づいているかも知れませんが確認は出来ません。

 

だが重要なのはその根底にどんなものがあったのか?です。だけど形に拘ったのは縄文人も同じなのでは?と思ってしまいます。これは自分の推測でしかないので反論は覚悟していますが、彼らは今で言う超能力とか霊能力みたいなものは持っていたのだと思うのです。

 

そして彼らが形にこだわってのは、そこのその特殊な力を得る為だったのだろうと思うのです。それは彼らの社会システムとか儀礼や舞踊や祝祭といった生活の中の色んな形態が、そもそもそのような特殊な力を呼び起こす為のものだったからなのでは?と思うのです。

 

もちろん本人の意識が高い場合は形が無くてもこの種の力は発現する筈ですが、彼ら縄文人は象形の中に力を宿す方法を模索したのでは?と考えられるのです。ちなみに彼らはこのような文化や習俗、社会システムの中で社会全体に溜まるエントロピー(穢れ?)を軽減していたのでは?とも思います。

 

意識的にやっていた訳じゃないかも知れないし、それはもっと切実な生活の安定を願っての行為だったかも知れませんが、どちらにせよこれはとても重要なことです。これより後の時代においても、日本では穢れを祓うとかそんな風習は残りますし、お祭りなどの風習も残りますが、縄文時代の社会においてはこれが社会生活の中心にもっとはっきりした形で存在したのではないでしょうか?

 

これは今残っている遺跡や出土品などからそれがどんなものだったのか想像するしか無いのですが…。そしてそれは自然の一体になるとか宇宙と一体になるとか精霊と対話するとか交流するとか先祖の魂と交流するとかそんなことだったのでは?と思うのです。

 

勿論、日ごろの生活の中で関わる他人との関係においてもこの能力は前提としてあったんだと思うのです。これはその後の時代にも以心伝心と言われて部分的には残ります。

 

それから今でも日本にいらっしゃるイタコとか沖縄のユタなんて人々は縄文時代のシャーマンたちとつながる存在なのではないか?と感じます。

 

そしてこれらは今の私たちの体現している科学技術とか生活の知恵とある部分では重なることもあるのでは?とも思うのです。今の私たちはこの能力を殆ど失ってしまいましたが、身近な相手との間では気持ちは分かり合えます。そして以心伝心じゃないけど、その代わりにインターネットとかIAといった最新の技術があります。

 

また彼らの美術的センスとか感覚的なものは凄いと感じます。土偶にしても土器にしても、そのほとんどが今見ても美術品レベルです。これらに実用性がどの位あったか?とか、呪術的な意味がどの位あったかは物によると思うし、いろいろあったのだと思いますが、これらの形を創造した彼らのイマジネーションというか感覚はどこから来たのでしょうか?まさか適当をやっていたら結果的に出来たとかそんなものでは無いでしょう。

 

これは明らかに彼らの自然と共に生きるというスタイルから生じているんだと思います。自然と共に、地球と共に、そして宇宙と共にという精神性から湧き出して来るイマジネーションなんだと思うのです。

 

土偶の形に関しては色んな説があって、いまだに謎めいていますが、一説には植物を象ったと言われ、一説では奇形児が生まれた時にそれをデフォルメしたとか妊婦だとか言われます。

 

どんな理由だったにしても、その造形は彼らの創造力とイマジネーションが今の私たちから見ても凄いとしか言えないものたちなのです。

 

そしてこの造形とかそこに込めた想いなどと関連して、彼らは祖先と共に、あるいは精霊と共に生きていたのでしょう。今の私たちからは想像するしかないですが、彼らは確かな叡智をもっていたのでしょう。そしてその一部分は今の科学とか学問にも通じるものだったかも知れません。

 

ただ形態もその考え方もあまりに違い過ぎて想像するしかないのです。だが彼らが武器も無く社会の調和を1万年以上保った秘密はそこにあるのでは?と思うのです。

 

人間の本質は決して争うことではないと信じたいのですが、今までの話の中で人間の本質の話をしちゃったので今更ですね。西欧的な考えでいくと人間というのは原罪がある存在と捉えられますが、日本人は性善説です。そして「罪を憎んで人を憎まず」です。

 

縄文人も人間っていうのは基本的には善だが、時には悪になることを分かっていたのでしょう。それは自然というものの無常さを見れば分かることです。人間は時にはその自然をも凌ぐパワーを発揮し、それは時には制御できない悪しきものにもなるということも分かっていた筈です。

 

だから自身を戒めて、悪しきものが争いとかそんな形で表出しないように、彼らは社会システムの中で制御し得たのでしょう。そしてそれは自然と一体でいることとか祖先と共にという生き方だったのです。

 

彼らは自然を畏れたがそれを拒否したり制御しようとは思わなかった。これは日本の自然というのがそもそも本質的に包み込むような暖かいものだったからなのでしょうか?それとも縄文人の感覚が鋭かったのでしょうか?たぶん縄文人の感覚が優れていたのでしょう。彼らは死生観というか、死んだら戻るところは自然であり宇宙なんだということを理解していたのです。

 

日本人的感覚と西欧人の感覚の違いは確かにあるのです。これは自然をどう捉えてきたか?とも関わるのでしょう。日本人的には自然は対立項ではないのです。だが西欧的にとっては…これは先の章の話ですが、西欧人は進化の途中でちょっと勘違いしてしまった。そしてこれも意味のある勘違いだったのでしょう。この勘違いがあったが為に人類はここまで進歩しましたから。

 

そして現代社会というのはこの西洋人的な勘違いの上に成り立っています。そして自然っていうのは悪しきものも含めて成り立っています。善悪二元論じゃないんです。そして人間はその自然から派生した生物ですが、その存在は癌細胞の同じでちょっと❝はみご的❞な存在です。

 

西欧的勘違いはこの本質が根底にあるのです。日本人は古代から近世まだこのような西欧的世界観では生きていない。しかし弥生時代以降は西欧と同じように拡大基調で来ました。そして水田稲作というのはこの社会の拡大に寄与するものでしたが、これは同時に人間の健康問題の発端でもあります。

 

いろんな研究があるので人によって考え方も違うが、文明病の原因は糖質過多だという研究者は多い。縄文時代にも糖の問題はあった事は知られています。縄文人には虫歯が現代人と同じぐらい多いのです。だが糖質過多の問題は人類に免疫不全症候群と微量栄養素の不足という新たな問題を引き起こしました。

 

食料難の時代は終わりましたが新たな問題を抱えることになったのです。勿論、程度の問題なので当時は今と比べたらよっぽどマシだったかも知れませんが、この問題が時代と共に深化したのが今の文明病問題なのです。だが日本人は江戸時代までは比較的この問題を気にしていなかったかも知れません。この食性というか食文化の西欧との違いも日本人的です。

 

西欧と道は違うが日本の歴史における弥生時代以降というのは、これも勘違いだったのかも知れないでは無いか?そしてそれ以後の進歩の途上ではいろいろ騙されながらも確実に歩んでいるようで、これも見方によってはその都度勘違いが深まって行ったのです。

 

だが過去の日本人は感覚が鋭かったのでしょう。この勘違いや間違いを各時代に復古という考え方の中で正していったのです。それは記紀とか神道とか、武士道とか明治維新の時の王政復古など色々あります。茶の湯とか華道とか大和絵とか文化的なものにもこの復古という面はそれぞれにあります。そこには技術とか考え方と共に大事な精神性が受け継がれています。

 

勿論、正されないまま受け継いでしまった部分もあるかも知れないし、形の上では違うものになったかも知れないが、これはしょうがない部分です。それぞれが復古であると同時に分化の創造なのですから。

 

時代の流れとは逆らえないものですから復古と言っても限界はあるでしょう。だがこの復古という考え方があったから日本人は日本人的なままで生きて来たのです。そして日本人には日本人的DNAの働きが今でもありますから、きっと今でも思い出すことが出来る何かはある筈なのです。

 

だがそれはどんなものなのでしょうか?今、日本人が進む道はどんな道なのでしょうか?勘違いは勘違いだったと認識することが求められているのかも知れません。

 

日本人と西欧人っていうのは両極のように言われます。フランスの社会人類学クロード・レヴィ=ストロースは「西洋が耳を傾けようとさえすれば、日本文明が与えることが出来る優れた教訓の数々を、それは現代に生きる為に過去を憎んだり破壊する必要は無く、日本人がこの日本文明を今でも信じていたならば、私が人類の未来に抱いている暗い展望が、唯一の展望ではない可能性をわずかではあるが、私たちは持つことができる」と語っていました。これはとても造詣の深い言葉です。

 

そしてもともとの社会の成り立ちを見ても、その違いはいろんな形で見て取れます。例えば西欧人は契約を重視しますが、日本人にとって契約なんてものはもともと必要ありませんでした。だが今の社会システムはこの西欧的なものになっていますから日本人は違和感を感じながら合わせています。法体系なんてものは元々はそんなものです。しかし今では個人の関係も国際関係も全てこれが基本です。

 

日本人が外国人であろうと近所の住人であろうと相手を疑う事を基本的に出来ないのは、もともと西欧人のような原罪意識とか契約の概念が無いのが影響しているからかも知れません。

 

だから騙されてから気付くとか、襲われてから「こんな筈じゃなかった」という状況もあるのです。また今の憲法を疑うことも無く信じてしまったのも、日本人にとってはそこに当然の事が当然の様に書いてあるからなのです。

 

最近は逆に種々の経験から西欧的な防衛意識というものが必要不可欠だとし、過度に反応してしまったりするのです。社会的にも面倒な手続きが多いのはこれが原因かも知れません。

 

だがこれも歴史を振り返ると聖徳太子の時代まで遡ります。つまり日本が国家としての体裁を整えた律令制の時代以降、日本人はちょっとずつ西欧とは違う形で文明を発達させて来ましたが、そこには日本人的な感覚を残しつつやって来たのです。だがこの時もグローバリズムに侵されていたのは先に説明した通りです。

 

そして昔の日本人は自宅に鍵をする習慣すら無かったのです。商売の基本は信用でした。これも感覚的なものです。知り合いの紹介だからとか、田舎が近いからとか、頭で考えているようで考えていない。隣人も天皇陛下もみんな元々家族なんだから当然なんです。

 

そしてお客様は神様なんです。これは自分も神様なんだからこれも当然なんです。表面上はそうは思っていなかったかも知れないけど、たぶん深層意識を解いていけばそんな理由になるのだろうと思います。他者に対するリスペクトって自分自身に自信がなかったら出てこないです。そして❝おもてなし❞ってDNAも関係しているみたいですね。

 

復古についてはもうちょっと考えたいと思います。しかし日本人ってやっぱりちょっと特殊です。こんなにたくさんの財産があるっていうことにまずビックリ。そしてそれぞれに見られる創造性と精神性にも驚かせれます。

 

<この投稿は連載企画です>